大学紹介

学長メッセージ

「福祉系大学の使命」 杉本一義学長

■その5 (9月16日更新)

三.福祉分野における専門家の実践家像の探究

 

  今こそ、教育や福祉、医療など、人 間相手の分野における専門家の目指すべき実践家像の探究は目下の急務となっている。そこでその探求の手がかり、基本的前提として、まず次のような四つのタイプ(人柄)を想定して考えてみることにする。

 

  ①合理的タイプ

  ②非合理的タイプ

  ③感傷的タイプ

  ④局部専門的タイプ

 

 ①合理的タイプとは、たとえば 「あなたの言っていることはわかるが、筋が通っていない」と極端に筋を重んじてゆずらないタイプである。常に、理にかなっていなければ承知できない。綿密な計画をたてなければ行動に移れない。定規で計った ような考え方をし、融通のきかないタイプである。

 ②非合理的タイプは、社会全体が歪んでいるのだから、規則通りにいくものかと、まあまあ主義でいくタイプである。周囲の人々にへつらい、こびた態度をとる。こうしたタイプの者は、始めのうちは、ものわかりのいい、やさしい人柄として人気を集めることもある。けれども、月日とともに新鮮さを失い、あきられて、そっぽを向かれるようになりかねない。

 ③感傷的タイプは、何か困難に直面すると、感傷的になり易くなるタイプである。確固たる信念を持たず、涙ぐみやすく 、やたらと同情をかおうとする。人情味があってやさしく、望ましい面もあるけれども、肝心なところで動揺し、頼りがいがなく、信頼を失いがちである。

 ④局部専門的タイプは、何か重要な決定がなされる場合に、法律的にどうかとか、心理学的にどうだというように、堅くなに自分の専門を固持し、自分の考えを一歩も譲ろうとせず、その立場からのみ主張するタイプである。考え方の幅が狭く、自己主張が強い。 

 以上四つは、多かれ少なかれ誰でも持っている性質である。これらのタイプは、いずれにしても生産的なタイプとはいえない。生きた人間の福祉を専門とする実践家としては、心の開かれた自由な開発的で創造性に富んだ生産 的タイプの開拓者が望まれるのである。

 社会福祉は、もともと開拓的事業である。それは、すぐれて創造的であり、人間生活のニーズ(needs)を満たし、さらに人類の願い(desire)に対して的確にこたえていこうとする事業である。そこには、たんなる常識的判断を越えた専門的実践と、時には常識の枠を越えた情熱的実践とをあわせ要求されることがしばしばである。大事業を成し遂げようとする場合の、あの文字通り血のにじむ開拓的な努力も必要なのである。

 人間福祉の専門職としての主体的立場を、この開拓性に求める時、そこに二つの開拓課題が求められる。一つは創業という課題であり、人類がこれまでに想定できなかった「問題」への対応も、この開拓課題と言ってよい。福祉分野の先達はその名に値する事業形態の源をつくり出した。この努力があったればこそ、現代におけるこの分野の実践家が存在するわけである。

 二つめの課題は専門性の確立ということである。先達の興した事業を専門的により高度なものとして進歩発展させることが、今日の福祉実践者に課せられた開拓課題といってよい。先覚者たちは、労働条件どころか、自らの私財を投じ、身を粉にして開拓の道に励んだのであった。こうした歴史的現実をわれわれはどうみているであろうか。

 また、従来、教育や福祉は聖職であると考えられていた。それが、近代化の波にあって、そうした考え方、福祉的精神は封建時代の遺物ともみなされ、現代ではそうした考え方をもつ者がきわめて少なくなっているのではなかろうか。そして、その結果、尊敬され信頼されることのない教師や福祉実践家を生み出すことになったと言っても過言ではなかろう。こうした傾向は人間の福祉を目的とする職業においては一大問題であると言えよう。

 こうした反省から、聖職観の見直しと近代的職業観の再検討が要請される。人間の福祉、人生福祉の真のあり方を探究し、それを実現しようと願う新しい福祉の実践家像、その主体的立場の確立は目下の急務なのである。対象者の心を動かし、人間一人ひとりの主体的な歩みだしを助長する専門家の態度とはいかなるものでなければならないだろうか。

 聖職観の特性は、①物的報酬を超越し、②自己を犠牲にして他に奉仕するというところにある。この二点を持つことによって福祉実践家として尊敬され、信頼されることになるのである。ところで、この聖職観の真の意味は、そうした行為が、実践家の③主体的哲理によって導かれているということである。したがって、その場合、自己犠牲が単なる自己犠牲ではない。

 これに対して、近代的職業観の特性としては、まず第一に④生活保障ということがあげられよう。したがって、⑤労働条件の問題が中心的に取り上げられることになる。労働条件・生活が保障されてこそ、よりよき実践が可能になると言うわけである。

 こうして、人間福祉の分野における実践家としての主体的立場とは、物的報酬の超越、自己を犠牲にして他に奉仕するという精神、あり方に加えて、生活、労働条件の保障ということが、個々の実践家の主体的な哲理によって統合化されるところに求められると言ってよいであろう。

 近代に至って、科学の発達には眼を見張るものがある。ところでそのことでこの世が住み易くなるはずが、逆にかえって住みにくくなっている。人間生活に不安が生じ、かえって困難になっている現実、その根本原因 を洞察しなければならないのである。

 

むすび

   「社会福祉」と言う用語がはじめて公に示されたのは、第2次世界大戦後に制定された日本国憲法においてである。世界に冠たる憲法に基づいて制定された各種の法律によって国の政治・行政は運営されているが、ここで銘記して置くべき重要な点は法律というものは、後行性(常におくれている)・画一性・権力性を特徴としているということである。したがって、法律は社会状況の変化、新しく生起する問題、福祉的ニーズに即応できないことがしばしばであるということである。生きた人間の現実問題においては、時と場合によっては法律を越えた対応が要求されることもある。

 人生の福祉という視座から、法律に基づいてことをすすめる立場にある行政・公務員の考え方、姿勢の問題が問われるわけである。高貴なる開拓精神に基づいて発想される民間福祉の意義がそこに求められるであろう。福祉系の私立大学の存在する意義もここにあると考えるのであるが、いかがであろうか。

 国、各自治体の行政は、すべて法律によってすすめられる。ところで、法律の特性は、①後行性、②画一性、③権力性にある。したがって、多様化して行く社会・国家における人間生活への対応の方法に対しては常にこの法律の特性についての認識が不可欠なわけである。

 これまで、こうした点について、実際に検討されたことがあるであろうか。

 この度の東日本大震災、それへの対応 ― 国、地方行政、市民全般の人々のとった態度、行動が、真に人間の「福祉」、人生の「福祉」という視点からみて、どうであったか。そして現在、今後どうすべきか、 国をあげて、いな世界全体でこの根本のところを検討し、対応しなければならないと考えるの である。


■その4 (9月9日更新)

二.福祉概念の推移 ―「幸福」から真の「福祉」へ―

  わが国において社会福祉(Social Welfare)という言葉は、第二次世界大戦後に福祉国家(Welfare State)という用語とともに登場してきたものである。今日この用語は、日常生活の多くの領域で使用されており、その意味・内容は用いる人の立場や考え方によってさまざまである。
  これを多少なりとも専門的に考え、整理してみると、一つには主観的、理想論的観点からと、一つには客観的、実証的な視点から捉えていくことができよう。前者の場合には福祉国家実現の願いが込められており、後者の場合には現実の福祉問題への具体的な対応の意味が含まれている。
  社会福祉という用語、およびその概念の成立過程を振り返ってみると、次のように大きく四つの段階に区別して考えることができる。

①救貧

  人類の歴史において、強者が弱者を思うままに利用・支配してきた事実は珍しいことではない。そのようなあり様が人類の生活史の一脈をなしていたと言っても過言ではないであろう。
  ところで、いかなる時代においても、そうした弱肉強食の風潮の反面において、それぞれに意図や目的はいろいろと異なっているにせよ、強者が弱者をかばい、富者が貧者を助けてきた事実のあったことも否定できない。
  そのように、貧しく、困窮している人々を救助することを文字通り〈救貧〉といい、この救貧行為は人間の歴史とともに古くから行われていたものと考えられる。厳密にいうと、今日においても行われているかもしれない。

②慈善事業(Charity Work)

  人間が人間を援助するという場合、そこで展開される行為は、その場合の行為者の目的や意図でさまざまな形をとって現れる。相手を利用するため、また単なる同情や義理人情によることもあるであろう。
  そうした中で、道徳的、宗教的な仁愛の情によって行われる行為を慈善活動という。この慈善活動は、封建社会において、また資本主義社会においても行われてきたと言えよう。それは、社会機構の整備されていく過程において貧困者が続出してきたからにほかならない。
  資本主義社会は、利潤の追求と自由競争によって特徴づけられる。そこでは、時流に乗った階層は目覚しい発展を遂げたけれども、その繁栄の影に生活困窮者が大量に続出することになった。こうした状況下において、従来から散発的に行なわれてきた慈善活動は、徐々に計画的、継続的に行なわれる一種の事業、つまり慈善事業へと発展して行った。
  ところで、慈善事業は、その本質において対象者に対する主観的な、道徳的、宗教的動機によるものであり、自己満足的な活動に終わりかねないこともあるために、近代における社会問題化した状況への根本的な対応とはなりえなかった。
  また、そこには人間の平等を前提とする近代社会のあり方からも、大きな矛盾があった。こうして慈善事業のあり方は科学的、合理的な視点から考え直さなければならなくなったのである。

③社会事業(Social Work)

  こうして、生活困窮者の実態を科学的に明らかにするとともに、従来ばらばらに行なわれていた慈善事業を組織化して、その活動の合理化を図ろうとする努力がなされるようになった。それは、具体的には、慈善事業の機関を組織化し、さらにそれを地域的に整備していくことであった。
  社会事業とは、このような運動が転化し、発展していったものである。つまり、慈善事業のみでは構造化した社会問題への対応が困難となり、科学的な知識、方法の導入による客観的、計画的、組織的な事業としての社会事業が必要不可欠となったわけである。
  こうして、社会事業は、国家・公共団体・私的団体・法人によって、近代社会の生み出す福祉的諸問題に対して、科学的、合理的に対処していくべきものとして、重要な役割を果たしてきたのである。

④社会福祉(Social Welfare)

  社会福祉は、現実に生起している問題への対応のみではなく、予防的な対策をも含み、その対象者も経済的な困窮者だけでなく、すべての社会人、国民全体に及ぶようになった。すなわち、個人や家庭の問題、集団、地域、制度・文化の問題へと活動範囲が拡大されてきた。
  こうして、現代の社会福祉とは、目的概念として、社会福祉とは何かを追及する哲学的課題と、実体概念として、これを現実に具体化していく科学的課題とを会わせ意味するものである。
  要するに、社会福祉は、その当初においては持てる者が持たざる者に与えるという「与える福祉」であった。それが権利としての「要求する福祉」へ、ところで人間の要求には際限なく国の財政には限界があるために関係のあるすべての国民の手による「参加する福祉」へと発展してきた。そして今、改めて「福祉とは何か」が問われている。真の福祉を探究する「哲学する福祉」の時代に立ち至ったといってよいであろう。

⑤人間福祉・人生福祉

  社会福祉は、その対象者によって児童福祉、老人福祉、障害児・者福祉、地域福祉等と分化し、多様な制度・施策、実践活動が専門度を高めながら展開されてきた。ところで、そうした諸分野において専門度が高まれば高まるほど忘れ去られがちとなる人間性の問題、人間疎外の問題、さらに援助を与える側と受ける側の人間としてのあり様、生き方、さらに人間存在の根本に着目して、人間学的な発想による新たな援助方法が求められてきている。同時にこれを個々人の「人生の福祉」という視座からの再体系化をめざす人生福祉の探究が求められてきていると考えるのである。


■その3 (8月29日更新)

一.人間存在の根本方式

 人間は、部分的でなく、次のような三つの次元を一貫して生活する全体的存在である。。
 

①生物としての次元

  この次元は、生物として「生きる」ことが中心となる。ここでは、まず動物、植物、生あるもののすべてに共通した特性をおさえておくことが大切である。生きていくためには、その母体を維持するためにおこる欲求がある。例えば食べたいという欲求、食欲である。
  それから「種」を維持していくために起こる性的欲求がある。この欲求は、たとえ一時的に抑えられたとしてもなくなってしまうのではなく、無意識のうちに押し込められ、抑圧されて、意識にはのぼらず、表面に現れていないだけである。それは、どこかで生き続けており、何らかの形でいつかまた出てくる。
  これらの欲求は、生きるための基礎的欲求であり、生きている限り否定することはできない。この点を押さえておかなければ生きた人間を生きたままで理解し、援助することはできないのである。

②文化社会的な次元

 人間は生きているだけでなく生活をしている。人間は生活していくために社会を形成し、文化を創造していく。このことを文化社会的な次元を生きるという。この次元では「生きる」ということから「生活する」というところに重点が移っていく。そして、生活の基盤をなすのが役割である。人間は誰もがそれぞれにそれ相応の役割を持ち、それを果たすことによって生活は成り立っている。この次元を役割の次元ともいう。
 例えば、定年退職などになると不安になってくる。そして退職後、数年にして見る影なく落ち込むことがある。それは、退職することによって生活の基盤であった役割がなくなるからである。したがって、役割にのみしがみついていると、いつか悲惨な事態に直面することになるのである。
 人間の役割にはいろいろなものがある。福祉施設でいえば施設長、指導員、保育士、会社では社長、部・課長、また、親には親の役割がある。人間はそれぞれに自分自身の役割を持ち、それを果たしながら生活を送っている。ところで、この役 割の特徴は何かと言うと、それは代理が可能であるということである。
 人間は、高い地位につくと、そのことで自分を偉いものと思ったり、この仕事は自分でないとやれないなどと思い込んだりすることがある。しかし、誰でもいつかは、その役割を果たせなくなる時がくる。このような役割によって成り立っているのが文化社会的次元の特徴である。

③存在としての次元

  生きた人間を捉える場合、もうひとつ重要な次元がある。それが、存在としての次元である。この世における地位・役割・財産など一切を取り払って残るもの、それを「存在」と言う。この「存在」の次元では代理が不可能である。これは、例えばわたしが死んだら、もうわたしという「存在」はないということである。わが子が死んだら、どのような子どもをもらってきても、それはわが子ではない。人間一人ひとりがそうした代理不可能な主体的な存在の仕方をしているのである。このかけがえのない「存在」に焦点をあてて理解していくことを、存在としての次元で捉えるという。
   人間は、そうした三つの次元を一貫して生活しているのである。ところで、現代社会における人間の問題の根源は、人間をそうした全体的存在としてではなく、部分的・表面的・断片的にしか捉えないところにあると言ってよいであろう。そのために、人間が生きた統合体としての本性を忘れられてしまっている。
  また、代理不可能な存在としての人間が、無制限に代理があるかのごとく取り扱われることがある。人間を部分的、あるいは代理可能な存在として捉えるということは、人間を機械や、その部品のように取り扱うということであり、そこで人間性が無視される。これを人間疎外の状況にあるという。そこに現代における人間の問題の病根があると考えるのである。

 

■その2 (8月22日更新)


  人生は一回限りである。青春は二度とない。この一回限りの人生、青春時代をどう生き、どのように生活を送ってき受けるとは一体ということであろうか。
  この根本問題をはっきりと認識するために、自分自身の存在、「生と死」、今ここに生きて日々の生活を営み、喜びや悲しみ、さまざま苦悩や不安を経験しながら生きている自分自身の存在とは、一体どういうものなのか。今こうして生活している私の存在の根本の条件は、一体どういうところにあるのか。今こそ、本ものの、人間としての生き方を探究しなければならない。
  たとえば自分が生まれきたことを考えてみると、それは自分の意志によるのではない。自分の両親や国、民族、 時代、さらに自分の容貌や才能などもすべて自分で選択したわけではない。気がついた時には、すでに今の両親を持ち、この国に、そしてこの時代に生み出されていたのである。換言すると、生まれて今ここに在るということも、自分自身の意志や選択とは全く無関係の事実である。このような自分の意志や選択を超えた存在は、その必然性において、全く受身的なものなのである。
 そればかりでなく、自分の意志でもないのに、はじめから死ぬべき存在として定められており、何の理由もなくここに存在しており、また今ここに居る自分という存在もいずれ間違いなく奪われるということが、この存在の根本的な宿命なのである。自分が存在するに至った経緯は、全く運命的であり、全くの偶然のことにすぎない。こうして、自分がすでに存在としてしまっている以上、この運命的、偶然的な、しかも束の間の存在を、自分自身の存在として引き受けなければならない。なぜならば、自分の存在は、けっして誰かに代行してもらうことのできるようなものではないからである。 
  こうして、自分がすでに存在としてしまっている以上、この運命的、偶然的な、しかも束の間の存在を、自分自身の存在として引き受けなければならない。なぜならば、自分の存在は、けっして誰かに代行してもらうことのできるようなものではないからである。 

 

■その1 (8月9日更新)


 幸福から「福祉」へと、発想の大転換が迫られている。このままでは、明日はわが身・・・・・幸福と福祉とを同じような意味にとっている場合があるけれども、厳密に言えば、幸福とは個人の幸せのこと、福祉とはすべての人々、社会全体、国、世界全体のすべての人々の幸せを意味する用語である。
  したがって、一人でも不幸な者がいれば福祉国家とは言えない。人間の福祉の真の意味と、そして福祉社会・国家実現のあり方、向かうべき方向性を探究すること、そこに福祉系大学の使命があると考えるのである。
  科学の発達によって、文化は進歩してこの世は住みやすくなるはずが、逆にかえって住みにくくなっている。そしてその住みにくい社会を生きて行く手段として、人々は自分自身の幸福のために地位や財産を守り、自己防衛に走ることになる。そして今まで親しかった同僚が自分の出世によって敵ともなりかねない。
  20世紀は、人間が歴史上人間を最も多く殺した世紀であった。原子爆弾の大悲劇の後、世界に冠たる平和憲法を制定し、福祉国家の理想と原理を高くかかげた日本であるにもかかわらず、国立大学に福祉学部、学科がないのは何故か。どうしたことだろうか。
  競争社会における科学の推進、国をあげての知育偏重の現代教育の実態、そして価値観の多様化と「福祉」的真理探究の哲学の貧困、こうした状況下で、科学が発達すればするほど人間の幸福どころか、人類は絶望、絶滅の一途を辿るほかないのである。
  何故ならば、科学や制度そのものには他者への思いやりの「こころ」、要するに真の意味での福祉の「こころ」がないからである。この度の東日本大震災-地震と津波と原発という天災と人災による未曽有の大悲劇から私どもは何を学ぶべきか。