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東日本大震災の被災地リポート(その1:塩釜、多賀城、東仙台)・・・学部長 石田和男

2011-05-07

2011.05.01

 
 最初に塩釜市を訪れた。仙台市からのアクセスが比較的簡単だと思われたからである。昔この町は塩の町として栄えた。その後、松島観光の起点として発展、活気のある町になった。ところが今回の震災で観光客の足はばったり途絶え、桜の季節に再開された観光船に訪れる人はいない。
 高台に広がる中心地の様子からは被害状況をうかがい知ることはできない。ファミレスの前にたむろしている地元の若者たちに津波の被害について聞いてみた。すると意外な答えが返ってきた。ここより遠い石巻では大変な被害を受けているという。まるでこの町は被害を受けてないかの口ぶりだ。この町の被害についての報道があるが、と食い下がると。1人の青年が自分の住んでいる七ヶ浜では相当な被害があったという。無理やり話をさせたようで気が惹けたがそこまでの道のりを聞いてみた。彼はそこまでに至る道のりを親切に教えてくれた。別れ際の笑みが印象的だった。
 七ヶ浜は塩釜港の南側に張り出した半島の突先に位置していた。そこまではなだらかな道が続く。道々桜や菜の花が目を楽しませてくれた。しばらく行くと視界が開け、海が見えるようになる。道はそのまま一気に下がる。するとあたりの様子が一変する。家が密集しているにもかかわらず人影が無い。
 それは突然のようにして視界のなかに現れた。

 
 家々はまるで鋭利な刃物で切り取られたかのようだ。まだ立っていればましなほうで、完全に崩壊してしまった家の方が多い。よほど強力な力が加わったのであろう。岬の先端に位置するこの地に津波ははじめに襲ったのであろう。荒れ狂う勢いが感じられる。
 地震によって起こった第1波の津波は三陸海岸に向けて進んでいた。それは我先にと競争するようにしぶきを上げていた。最初に到達した津波は漁港を襲い、次々と家々を倒していった。そして岬の高台に勢いを阻まれ、別の方向に逸れていった。すると別の方向からやってきた波と合流し勢いを増し、1箇所の力によってではなく、別々の力が加わり倍加していった。

  

  
 道を先に行くと海岸線につく。そこの被害はもっと深刻である。ほとんどの家が崩壊している。海岸に平行に進んできた津波は一気にこの地を襲ったのであろう。その勢いは尋常ではない。波は開拓されたばかりの新興住宅地の奥深く山側に至るまで襲っていた。
  

  

 
 死の町には何でもころがっていた。トラック、巨大なコンテナー、ジープ、大きな石。なかでも若い夫婦が住んでいた家の跡に残されたぬいぐるみが痛々しく思われる。
 
 避難所となっている丘の上に登ってみるとそこにある住宅は当然のように無傷である。しかし、真下の住宅地の惨状と比較すると別天地に思えてくる。それも現実である。ただ受け入れるのが非常に困難なのである。

 
 住宅街を離れると、多賀城市よりにぽつんと小さな漁港があった。そこにも津波の爪あとが確実に残っていた。丘の上でその港をじっと眺めている老人がいたので話しかけてみた。彼は以前漁師だった。その習慣もあって津波が来たときにはこの場所から漁港を眺めていた。津波は2度襲ってきた。これほどの津波は始めてである。家々を破壊し、舟は全て波に呑み込まれ大破した。遠くの防波堤の先にあった灯台も波の力で曲がってしまった。漁業共同組合も波に襲われ網が全てやられてしまい使い物にならない。普段であれば今頃は蝦蛄の漁で忙しいのだが漁師たちにその気力はない。国もそのことを知って、網や舟の手配をしてくれれば、いくらかの励みにはなったであろうが、いまだに何もなされる気配はない。
 その老人は淡々と語りながら遠く海の彼方を眺めている。果たして彼が求める希望はかなえられるのであろうか、胸が詰まる思いであった。  
  

              
 つぎに訪れたのが多賀城の工場地帯である。最初はそれほどの被害はないように見えた。
ところが各工場の建物はそっくり立っているからそう見えるのであって1階の部分は波によるダメージを受けている。何台もの車が松の木に引っかかっていた。
  

   
 東部仙台地域は立ち入り禁止と聞いていたが地元の車も入ってゆくので立ち入ることにした。高速道路と海岸の間の約幅1キロのところに160cmの高さの津波が襲い、この地域の住宅のほとんどを破壊していた。残がいは、各家ごとにまとめられていたので救援活動はほとんど終了していることを思わせる。数10キロにわたる破壊の惨状は筆舌に尽くしがたい。ただただ驚くばかりである。
   
 このあと名取川にかかる橋を渡ろうとしたが通行止めなので引き返した。